【公式ブログ】浜名湖舘山寺美術博物館 ギャラリー ラ・メール

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おんな城主 井伊直虎と十頭八幡様(舘山寺温泉・堀江城)

ギャラリーの庭に十頭八幡様をお祀りしています
十頭八幡様

  今川方に反旗をひるがえした井伊直虎ら井伊谷三人衆が導き、三千の徳川勢が大挙して城主新田喜斎(瀬戸方休)の堀川城(浜松市北区細江町)に迫ってきた。大手は尾藤主膳、奥表口は山村修理が守った。総攻撃は永禄十二年(1569年)三月十二日の干潮とともに。堀川城の城兵一千七百人とはいえ大半が百姓主体の男女入り混じった村人らである。いくさ慣れした徳川勢に敵うはずもなく、全員が討たれ(獄門畷で処刑)、戦闘はわずか一日で落城した。
 落城の惨劇の中で、山村修理は西気賀で切腹(修理の松に祀られる)。尾藤主膳は落城の様子を、ここ堀江城(城主大澤基胤 浜松市西区舘山寺町)に知らせるため家臣十名と堀江城に行き、場内にかくれたが、やがて同城も徳川方と和睦開城するに至り、もはやこれまでと家臣十人と共に切腹して果て「十頂(十頭)八幡宮」として祀られました。
これ以前の永禄三年(1560年)五月、桶狭間の戦いの直後に尾藤主膳の子、尾藤源内と孫の又八郎が尾張に移って森三左衛門可成(森蘭丸の父で織田信長の家臣)に仕えていた。孫の尾藤知宣は永禄年間に、羽柴秀吉に仕えるようになっている。
 尾藤主膳のもう一人の孫、宇多頼忠は、永禄七年(1564年)頃に武田信玄の家臣だった真田昌幸に長女(山之手姫・尾藤主膳ひ孫)を嫁がせ、真田幸村を生んでいる。
その後、天正三年(1575年)五月二十一日長篠の戦いで、武田家が遠江で勢力を失うと、宇多頼忠は所領を捨てて兄尾藤知宣を頼って近江の長浜城へ赴き、その紹介で知宣の主君羽柴秀吉の弟秀長の家臣となった。「竹生島奉加帳」には彼の名が兄知宣と共に残っている。 秀吉、秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が百万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ一万三千石を領する重臣となっていた。また、次女(おりん姫・尾藤主膳ひ孫)は石田三成に嫁組している。
   建立者 山村修理の子孫 金原 貴(時わすれ開華亭社長・かんざんじ観光協会長)
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