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★弘法大師の宿曜占星術★廃業しました

木寺宮定姫物語

今川 定姫
 
後醍醐天皇の皇太子であった邦良親王の子、康仁親王が木寺宮を称し、遠江の入野に都落ちし龍雲寺を創建しました。康仁親王から八代、赤津中務少輔は「大宮様」と称され、三人の姫君がありました。その定姫が堀江城に嫁がれたころの物語です。
 永禄十一年(1568)十二月、三河から徳川家康による遠江進攻がはじまりました。目標は今川氏真の逃げ込んだ掛川城。遠江に入った徳川勢は井伊谷城、引馬城から今川勢を駆逐して一本槍のごとくに掛川城へ向かいました。
軍勢 家康

 徳川家康による遠江侵攻では堀江城への攻撃は後回しにされていたようです。しかし、それも束の間の事で、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、永禄十二年(1569)三月十二日、大沢基胤の属将が守る堀川城(浜松市北区細江町)を一日で攻め落としました。この時、浜名湖北岸地域はまだ今川方の勢力が健在でありました。すなわち佐久城の浜名氏、堀江城の大沢氏、そしてここ気賀の小土豪たちが大沢氏の支援を受けて結束していたのです。
  堀川城の築城は永禄十年、浜名湖を背にして前面に都田川の水を引き、満潮時には徒歩では近寄れませんでした。
 城主には祝田で寺子屋を開いていた新田友作。そして尾藤主膳、山村修理、竹田高正といった土豪が村人内山党を結集してこの城に立て篭もったのでした。
 さて、掛川城を囲んだ家康ではあったが、一旦三河に引き上げて出直そうと気賀にさしかかったところ、そこの村人たちが武装して堀川城に集まり、不穏な様子を見せていました。そこで家康は渡辺図書の意見にしたがって雑兵の姿に変装し、一隊十七騎が先発し、渡辺図書は二百の兵を率いて後から進みました。
 この様子を見ていた堀川城では後発の二百人が本隊で家康はその中にいると判断、これに襲いかかったのです。しかし、家康は先に逃れたことに後から気付いて愕然としたのでした。
 改めて三千の徳川勢が大挙して堀川城に迫ってきました。大手は尾藤主膳、奥表口は山村修理が守った。容赦のない異様な気に満ちていました。総攻撃は十二日の干潮ととも堀川城の城兵二千人とはいえ百姓主体の男女入り混じった村人らです。いくさ慣れした徳川勢に敵うはずもなく、約千人が討たれ、戦闘は一日で片付きました。
 気賀七ヵ村(上村、下村、藤本、小森、油田、伊目、呉石)と刑部村の人口は当時合わせて三千人位であったとされています。この一日で千人が殺され、後日さらに関係者として七百人が処刑されているから、人口の半数以上が犠牲となったことになる。家康最大の汚点といっても過言でない戦いであったと伝えられています。
  落城の惨劇の中で、城将尾藤主膳は落城の様子を知らせるため部下十名と堀江城に行きましたが、同城も徳川方と和睦開城するに至り、もはやこれまでと十人と共に堀江城大木戸前(現在の静銀のあたり)で切腹して果てました。城内にいた妻もそこで自害。「十頂(十頭)八幡宮」として祀られました。 尾藤主膳の孫、宇多頼忠(うだ よりただ)の長女山之手姫(寒松院)が真田幸村を出生し、次女おりん姫(皎月院)が石田三成に嫁いでいます。真田幸村は尾藤修繕の夜叉子になるそうです。
 山村修理は加茂嘉右衛門の手船で城を落ちましたが小引佐まで逃れ燃え落ちる城を眺めつつ切腹。「修理殿の松」(浜松市北区細江町西気賀)と手厚く祀られています。その時山村修理の妻は倅を介抱し逃げていくところを追ってに出合い片腕を切り落とされも逃げました。
 竹田高正とその子雅楽之介、酒造之介はその場を逃れ、三河で討たれました。 高正はこの地に来る以前、木曽谷19代当主木曽義昌の娘を娶り天文二年(1535年)龍千代(雅楽之介)天文四年竹若丸(酒造之介)を生みます。武田信玄の信濃侵攻により天文年間、今川氏真を頼って亡命し、弘治元年より永禄元年(1555~1558年)に至り遠州引佐郡細江気賀の荒地六百余町を開墾し本拠としました。この時、信濃木曽氏の臣で姻戚、山村一族の山村修理太夫良等、信濃守護小笠原氏に臣従した尾藤一族の尾藤主膳高明(豊臣秀吉の家臣、尾藤知宣・宇多頼忠兄弟叔父)など、多くの信濃衆も開墾に参加しました。この地で気賀領主新田友作の媒介により、山村修理の娘を娶り、弘治二年(1557年)乙若丸(後の竹田永翁)を生み、新田友作に養子に出します。堀川城落城の際、竹田永翁はこの時三才で、金子五郎八弟庄兵衛を連れて信濃木曽の兄竹田稔右衛門西光(高正嫡男)の元に逃れました。永翁は九年間、信濃木曽で過ごした後、兄西光と共に気賀に帰郷しその後、気賀の地を西光に任せ、天正十二年(1584年)に豊臣秀吉に仕えました。大坂夏の陣に参戦し、嫡男竹田和吉高友と共に大阪城大広間千畳敷で自害しました。
 新田友作は剃髪して方休喜斎(瀬戸氏)と名をあらためていましたが慶長十一年八月十五日、僧侶姿で金地院(浜松市北区細江町)に現れたところを代官石川半三郎によって捕縛、呉石塔の下で処刑されました。
 内山氏は大和国磯城彦族十市首の末裔で中原兼遠の子、兼平(木曽義仲の重臣)が今井四郎を称し、その次男、久清右衛門兼益が信濃より遠州内山村(浜名郡新居町)に移る。その子が内山三郎を称し、その子孫内山治左衛門兼重が正統。明応八年(1499)の今切れ大災の大津波以来、今川良俊より特別な扱いを受けて内山より刑部に定住しました。その後今川にくみしました。明治維新となり、大政奉還と聞くや刑部・五日市の内山氏の末裔は双手を挙げて喜び、それまで節句祝いを止めてまでして耐え忍んできた鬱憤を晴らしたと伝えられています。
堀江城 定姫2

 徳川勢は三月二十五日には井伊谷衆(近藤石見守康用と登之助秀用親子、鈴木三郎大夫重時と、その婿菅沼次郎右衛門忠久)に命じて引き続き、大沢基胤の堀江城を攻撃させました。渡辺図書高綱、菅沼定盈を正、副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、大沢基胤は中安兵部、権太織部泰長らを率いて、数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けました。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいました。
 今川氏康が逃れて来ていた掛川城への攻撃に専念したい家康は、いっこうに朗報の入らない堀江城の戦況に業を煮やすと、渡辺成忠を使者として遣わし、徳川方への帰順を条件として大沢氏の本領安堵を約束する誓書を与えました。基胤もその勧告を受け入れ、永禄十二年四月十二日(1569)、堀江城の北に在った堀川城に於いて徳川方の石川一政・酒井田忠次、大沢方の中安兵部・権田織部泰長の四名によって、和議が成立しました。以後は、徳川配下として、小牧・長久手の戦いなどに従軍した。設楽原合戦には酒井忠次に従って参戦しました。
木寺宮定姫を母とする大沢基宿は父基胤とともに徳川家康に服属し、小牧・長久手の戦いなどに従軍しました。天正十六年(1588)三月、従五位下侍従・兵部大輔に叙任される。関ヶ原の合戦 後、遠江国敷知郡堀江村など六ヵ村で1550石を賜る。慶長六年(1601)、従四位下に昇進する。慶長八年(1603)二月十二日、徳川家康の将軍宣下に際し、その式典のことを公家二条道康 と相談します。事実上、高家として働いたものと考えられており、職務としての「高家」の始まりで、その後も朝鮮や琉球からの使者の謁見に際し、披露の役割を担当します。なお、江戸幕府が「高家」という職名を使用し始めるのは、元和・寛永期頃のようであります。
 慶長十三年(1608)十二月二十四日、吉良義弥と大沢基宿は高家職に就任しました。なお、高家的な役割を担うようになった要因としては、基宿の生母の家柄に理由があると考えられます。(木寺宮とは、後醍醐天皇の兄後二条天皇の子邦良親王を始祖とする皇族で)。
 慶長十四年(1609)九月二十三日右近衛少将に昇進する。その後、正四位下左中将にまで昇進する。慶長十九年(1614)六月二十八日、父基胤は死去、八十歳であった。寛永九年(1632)九月十二日、隠居し、長男基重に家督を譲る。隠居後は真松斎と号する。寛永十九年(1642)一月二十五日、堀江において死去、享年七十六。
 正室は一条信達の娘。四男二女あり。その他に養子一人あり。長男基重は大沢家を相続し、次男基定は公家持明院基久の養子となり、三男基成は分家して旗本になり、四男基近は分家して徳川頼宣の家臣になった。なお、大坂夏の陣に際し、持明院基久・基征父子は、豊臣秀頼を支持し、戦死した。

参考資料1
木寺宮康仁親王(きでらのみややすひとしんのう、元応二年(1320)~正平十年/文和四年四月二十九日(1355年6月10日)は、南北朝時代の皇族で持明院統の光厳天皇の皇太子。祖父は大覚寺統の後二条天皇、父は後醍醐の皇太子であった邦良親王。大覚寺統の嫡流に当たる人物である。後に木寺宮家を起こす。
大覚寺統傍流の後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を企てて失敗して隠岐に流される(元弘の変)と、持明院統から光厳天皇が即位した。だが、鎌倉幕府は今回の事件は大覚寺統全体が関与していないものであるから、後醍醐天皇と対立関係にある大覚寺統嫡流から皇太子を輩出して、引き続き大覚寺統と持明院統が交代で皇位継承(両統迭立)をすべきであるとしたため、持明院統もこれに同意して当時十三歳の康仁親王の立太子を容認した。だが、後醍醐天皇側の反撃によって鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇によって光厳天皇と康仁皇太子の否認(廃位、廃太子)が宣言されたのである。その後、中務卿に任命されたものの、大叔父・後醍醐天皇との対立は続き、足利尊氏によって持明院統の光明天皇が即位すると、これを支持した。康仁親王については、南朝方荘園の入野(浜松市西区入野町)に下向し龍雲寺を興し、そこに落ち着いたという伝承があって、親王の屋敷跡 ・墓所 ・真影とされるものが寺内に伝存している。親王が京都付近で没したことは『園太暦』に記されているので、少なくとも子孫の木寺宮が入野に下向した事実はあったのだろう。
龍雲寺古文書では康仁親王は次男を出家させ京都相国寺を創建した普明国師の元で修行をさせる。親王は当時南朝荘園だった入野に下向し御館を建立、四百余石を所領し、さらに御館横に祈祷所を建立し開基となる。この時、普明国師を勧請開山、次男(明庵察公)を実質初代住職として迎える。 康仁親王は正平十年に三十六歳で亡くなる。龍雲寺境内地には御墳墓五輪塔が残っている。康仁親王が京都で没した事が事実であれば開山後京都へ戻り没し、遺骨の一部か全てかを龍雲寺に運んだと考えられる。その後、木寺宮家は静覚入道親王まで続くが、その後の赤津中務少輔に至までの二代の方が不明である。この不明の方(六代目か七代目)のどちらかが再び入野に下向したとされる。赤津中務少輔の次男(弟説あり)円堂瑞椿は龍雲寺住持についている。 地方に下った宮家の例としては他に五辻宮が挙げられる。
『龍雲寺文書』によれば、永禄~天正の頃、当寺に「大宮様」が住んでいたが、武田方の軍役を務めていたため、徳川家康に攻められ、寺を焼いて信州に逃走している天正八年(1580)。「大宮様」とは赤津中務少輔のことで、木寺宮(康仁親王)の八世という。皇族の子孫であることは間違いないだろうが、その詳細は不明である。大沢基宿の母と伝わる木寺宮定姫と知久頼氏(嶌氏)の妻二の姫は赤津中務少輔の娘ある。知久頼氏の妻二の姫は最初、新田友作の父に嫁ぎ友作を生み離縁、知久頼氏と再婚する。知久家は宗良親王の御子尹良親王の家来である。
堀江新右衛門正重は永禄十二年四月(1569)赤津中務少輔の家来となる。本多の軍に攻められ信濃の知久家に逃れ京で亡くなる。堀江新右衛門正重は京まで同行し赤津中務少輔の葬儀を行い、その後正重五代の孫吉久は大沢氏に仕え安間と改姓する。 堀江氏は佐田城城主の家柄で、大永二年三月一日(1522)将軍足利義晴の軍が遠江に出征して、今川幕下の城を攻めを行ったが、その時佐田城も攻められ包囲された。激しく応戦したが水は無くなる。食料は乏しくなる。今はこれまでと闇にまぎれて脱出するが、赤々と焼け落ちる城を後にして、城主夫婦は船に乗って向う岸に逃れようとしたが、そこにも敵は待ち構えていた。逃げ延びる望みもうせて湖に浮かぶ岩に這い上がりいさぎよく切腹して果てた。翌日、足利方の兵たちがその岩に近づくと、そこには奥方に抱かれて生まれたばかりの赤子が眠っていた。敵兵もあわれと感じてその子を助けることにした。その岩が稚子岩(浜松市西区舘山寺町大草山)と呼ばれている。赤子は木寺宮の竜雲寺に預けられ信忠と名付けられた。堀江新右衛門正重の父である。
参考資料2
大沢 基胤(おおさわ もとたね、大永六年(1526)~慶長十九年六月二十八日(1614年8月12日)は戦国時代の武将。大沢治部基相の長男。妻は木寺宮定姫。大沢治部基宿の父。官位は佐衛門佐。浜名湖の東岸に位置する堀江城を有し、今川氏に従っていた。
参考資料3
大沢基宿(おおさわ もといえ、永禄十年(1567)~寛永十九年一月二十五日(1642年2月24日)は江戸時代の旗本(大沢家当主)。大沢基胤の長男。生母は木寺宮定姫。別名は基宥。通称は兵部、真松斎。官位は正四位下左近衛中将、兵部大輔。父基胤とともに徳川家康に服属し、小牧・長久手の戦いなどに従軍する。天正十六年(1588)三月、従五位下侍従・兵部大輔に叙任される。関ヶ原の合戦 後、遠江国敷知郡堀江村など六ヵ村で1550石を賜る。慶長六年(1601)、従四位下に昇進する。
参考資料4
永禄三年(1560年))五月、桶狭間の戦いの直後に尾藤主膳の子、尾藤源内と孫の又八郎が尾張に移って森三左衛門可成(森蘭丸の父で織田信長の家臣)に仕えていた。孫の尾藤知宣は永禄年間に、羽柴秀吉に仕えるようになっている。
孫の宇多頼忠は引佐郡に当主として残っており、永禄七年(1564年)頃に武田信玄の家臣だった真田昌幸に長女(山之手姫)を嫁がせ、真田幸村を出生している。その後、天正三年(1575年)五月二十一日長篠の戦いで、武田家が遠江で勢力を失うと、宇多頼忠は所領を捨てて兄尾藤知宣を頼って近江の長浜城へ赴き、その紹介で知宣の主君羽柴秀吉の弟秀長の家臣となった。「竹生島奉加帳」には彼の名が兄地宣と共に残っている。 秀吉、秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が百万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ一万三千石を領する重臣となっていた。石田三成に次女(おりん姫)を嫁がせた。
参考資料5
竹田永翁の父竹田高正(幼名龍若丸、通称重郎(十郎)、官位蔵人・左兵衛督、従五位下は信濃国に生まれ、村上義清の子という説がある。高正は木曽義昌の娘を娶り天文二年(1535年)龍千代(雅楽之介)天文四年竹若丸(酒造之介)を生む。武田信玄の信濃侵攻により天文年間、今川氏真を頼って亡命し、弘治元年より永禄元年(1555~1558年)に至り遠州引佐郡細江気賀の荒地六百余町を開墾し本拠とした。この時、信濃木曽氏の臣で姻戚、山村一族の山村修理太夫良等、信濃守護小笠原氏に臣従した尾藤一族の尾藤主膳高明(豊臣秀吉の家臣、尾藤知宣・宇多頼忠兄弟叔父)など、多くの信濃衆も開墾に参加したと考えられる。気賀領主新田友作の媒介により、山村修理の娘を娶り、弘治二年(1557年)乙若丸(竹田永翁)を生み、新田友作に養子に出す。堀川城落城の際、竹田高正、雅楽之介、酒造之介は割腹。永翁はこの時三才で、金子五郎八弟庄兵衛を連れて信濃木曽の兄竹田稔右衛門西光(高正嫡男)の元に逃れた。永翁は九年間、信濃木曽で過ごした後、兄西光と共に気賀に帰郷した。その後、気賀の地を西光に任せ、天正十二年(1584年)に豊臣秀吉に仕えた。大坂夏の陣に参戦し、嫡男竹田和吉高友と共に大阪城大広間千畳敷で自害した。


 参考文献:ウィキペディアフリー百科事典・細江町史資料編四・遠州渋川の歴史・堀江城物語(庄内郷土史研究会編集)

遠江人銘記
●三河国鈴木氏(磯部氏)から出た九郎右衛門重勝は、徳川家康に仕え、狩宿、別所を領し、三代孫 の源五郎は井伊谷近藤秀用の家老となる。
●近藤秀用の家老に稲垣八郎右衛門がある。
●井伊直満の家老に今村籐七郎正実がある。
●井伊左衛門尉弥直の孫の左衛門次郎直助が、上野原に築城して上野氏を名乗る。
●今川貞世(了俊)の三男貞兼が尾崎を称し、浜名郡の尾崎氏は貞兼の後裔。
●引佐郡瀬戸村より起こった瀬戸氏は今川貞兼の後裔という。
●永享三年(1431)堀江郷に大草三郎左衛門がある。
●奥山六郎次郎朝藤の子、金吾正定則は南朝に尽くし、延元三年久頭郷城(水
 窪)を築き、由機良親王に供奉した。
●引佐郡都田村の金原惣左衛門が、明暦二年(1656)より庄屋を務める。
●熊谷次郎直実の後胤次郎直次は、三河国から入野村に移住し入野熊谷と称する。徳川家康家臣 の大須賀康高に属した。
●本坂の地頭、後藤角兵衛は文明二年(1470)今川氏に仕え本坂の関守となる。
●井伊盛直の子、三郎俊直の後胤奥山行直の子孫光吉が長上郡篠瀬村を領して篠瀬左衛門次郎 光吉と称する。
●菅沼俊弘の子、元景、その子次郎右衛門忠久親子は井伊直親に属する。
●新田氏の祖は、新田義貞一族、新田四郎義一の後裔、三河国設楽郡清水城主新田 孫六右衛  門佑という。
●堀江孫右衛門尉下野守数年が、文正元年(1466)宿芦寺を開基。吉良家家臣大河備中守と堀江城に立て籠もるが、今川氏親家臣の伊勢新九郎長氏、朝比奈泰熈に攻められ落城する。
●山住神社神主家の守屋氏の初代は守屋左京亮藤原茂家、二代左衛門佐茂清が今川氏より出て 駿河浪人となり、奥山村門桁(水窪)に居住し名主役と神職を兼務する。十三代助大夫茂直の代よ り山住を姓とする。
●弘安四年(1281)鎌倉幕府家人の山内通茂が周智郡飯田荘の地頭職となり、応永元年(1394)天  方城を築く。応永七年頃天方城主の山内対馬守道実は三條中納言の代官となり、飯田城(森町)を 築いて移住し、天方城は弟の山城守に守らせる。
●正徳四年~享保六年(1714~1721)岩室伊右衛門は気賀代官を務めた。
●慶長年間(1596~1615)清野庄二郎が気賀村を知行する。
●慶長五年(1601)今切関所の初代番頭、五味小左衛門重長、以後七代に亘って番頭を務めた。
●気賀村の澤木氏は明治初期まで細江神社の神主を務める。
●細江の柴氏は木寺宮の家臣の後裔といい、宇布見村に住んだ。
●永禄十一年(1568)須部義忠は家康に味方する。子孫は上都田村の年番庄屋を務め、助右衛門、 与平次太穂司司がある。
●田沢城主(引佐)の田沢氏は井伊左衛門尉弥直の孫、兵衛次郎直道が祖。
●谷澤(谷津)五郎左衛門尉直村は井伊左衛門尉弥直の子。
●文明七年頃(1475)藤波伊賀守は堀江小猿丸の被官で、浜名神戸の代官職。
●応永の頃(1400~1427)伊豆国から三河国に移ったという伊東刑部祐雄は、松平氏に仕えたが後 に渋川村(引佐町)に隠れ次男刑部作は宮脇堂福、子孫は宮脇忠兵衛と称した。
●木曽氏の臣で姻戚の山村修理の子孫は山嵜と改姓。世々近藤家に奉仕する。

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